昭和41年6月25日 夜の御理解
信心の稽古をさして頂くという事は、神様の絶対愛を信じさしてもらう稽古をすること。神様の絶対愛。それを信じさしてもらう稽古をすることが信心の稽古。それから先のことは、ある場合は旧式であったり、またはお道の教師の信心常識であったり、なのです。
信心の稽古さしてもらう本当の目指すっていうのは、神の絶対愛を確信さしてもらえる稽古をさしてもらうことだと。ですからそこのところを分からして頂く、少しずつでも自分のものにしていけれる楽しいものが、だんだんできてこなければ稽古はでけん。稽古ということは、そのまんまもう修行である。ですから、その修行を身につけていくということの、ただ歯を食いしばってものではなく、そこんところに苦しい稽古も楽しいと、ありがたいというものになってこなきゃならん。
えー、夜、月例祭が終わりましてから、私どもが休まして頂いたのが2時半だったでしょうか、長女と愛子が最後まで奉仕しておりましたから、休んだのはもう2時半過ぎだったでしょうか。ほいでやはり今日は御神飯がございますから、長女は4時過ぎには起きておるはずです。そして朝のご祈念を頂いて、でから今日はあの福岡で典楽会があっておりますから、また楽のお稽古に行っております。先ほど帰って来ましたけれど、今日は眠かったろうかいって、ところが眠かったふうでもない。それはやはり好きだからですね。
これが例えば、他の????でもあったら?????することだろうと思うんですけれども、自分が好きなんです。ですから、昨夜休んどらんでも、それを楽しゅう福岡までやらせて頂いた。稽古をして来ておるように。だから、結局それが稽古すればするだけ自分のものになる。この楽しみがなかったら私は、そういうその好きにはならないと思う。
信心の稽古も、すればするほど自分のものになることが分かってくる。また神様とても、そこんところを願いだされるのですから、そこんところを疎かにして頂きおると、お気づきを頂いたり、ほらほらそれではいけんじゃないかというような、いわば只今修行中といったような時には、神様も本気でその氏子に対するご修行の体制が、神様の方もその体制を持って、その氏子にすぐ構えてくださる。
先ほどご祈念前に、上野さんが、上野愛子さんがご祈念さして頂いてますのに、やっぱり昨夜遅くまで御用頂いておりますから、まぁ今日は眠たいところでございます。別に眠たいとも思わんけれども、まぁ昨夜にも眠っとらんからというところで、まぁ座りながらではあったけれども、寄りかかったようにして休んだんでしょう。そしたら途端に頂きますことが、あのサーカスの、あの空中サーカスのところを頂いた。
今修行中じゃないか、こういう大事な修行をさしてもらいよる時に、寝とったらどうなるか。ちょっとでもそこに、間髪をいれないいわば、油断ということがです、それこそ、まっさかさまに落ちてしまうぞと。怪我するぞ、というその神様の厳しさを感じるじゃないですか。と思ってから取り直してとこう言うております。
最近、足にまた座りダコげできて非常に痛む。だから足を投げ出したり、横に座ったり、こうしようとこう思わして頂いた途端に、また神様くださったことが、その周囲にたくさんの人が正座しておるところです。その真ん中に自分があると。さぁこの気持ちでおれ。痛かっても辛抱できんことはなかろうが。満座の中に自分があるのである。というふうに厳しう、愛子さんには神様が、そういうふうに神様が出ておられます。厳しく。それを愛子さんが、本気で打ち込んで修行さして頂きたいという願いに応えて、修行してくださるのである。ですから本当にその、そういうように神様が本気でこちらが修行さして頂こうと思やぁ、修行さしてくださるのであるから、そこにいよいよ神様の絶対愛というものを確信さして頂けれるおかげ。
今日弟のそのヒロシさんが、ちょうどお礼に出て参りました。ほいで聞かして頂きました。先日から、まぁ分かり易く言うならば、今度エイテン?をするわけなんです。けれども、地方の方へその移って立派なお家も頂いて、だけれどもその、家内の方がどっこい、私はそげな所には絶対にいかんと言うてから強情張る。その強情も、もう本当にもやもやするほど強情張り。もうその持て余して、先日お願いに来た。
4、5日前だったでしょうか。????に出てきてるんです。もう先生ここから帰らして頂きましたら、もう手のひらを返すように家内が、そちらの方へ移ることを思うて、移るということを申しますと言う。で私申しました。あんたがね、もうない命をを助けて頂いた時でも、もう首の方の????おかげを頂くということでも、とてもあんたのごたる適当に年に何遍かしか参ってこんちゅう者が、おかげ頂くはずがないじゃない。でもこりゃあ姉さんのおかげよ。愛子さんの信心で御利益が立っとるとよ、というてから私話したことでございましたけれど。だから、そういう例えば、なら上野さんを中心にして、家族のものが兄弟たちが助かっていくというような、もっとたくさんの人達が助かっていく事のための、信心の力というもの、頂くということはどういうことかというと、神様を信じる力なのです。
神様を信じる力というのはどこを信じるのかというと、神の絶対愛を信じるのである。神様の絶対愛を信じさして頂く稽古をさして頂いておる。そこには自分はこのくらいの信心に、まぁ言うならば、でけたでけじゃったのような信心でも、自分が本当にさして頂けりゃ、神様がやはり私の言う事を、私の願いを聞いてくださるといったようなです、信心の楽しみというものが共のうてくる。
だからこそ、例えば豊美が、典楽のおかげを頂いてから、それがだんだん自分のものになっていく、その楽しみが昨夜休んどらんからといった問題ではなしに、福岡???までもやはり行けれるのである。しかも????。それはやはり、稽古しておる事が稽古しておるだけ自分のものになっていきよる楽しみがあるから。信心の稽古でもそう。ただお参りをしておる、拝ましてもろうて、ただ自分の願い事を申し述べるというだけのような信心からは、そういうようなものは生まれてこない。本気で信心の稽古をさしてもらう。信心の稽古とは、神様の絶対愛を信じさして頂く、稽古さして頂くそこに修行がいる。
昨夜寝とらんけれども、そのことが好きになってくるときに、やはりそこに内に篭って稽古ができるのである。眠たい、けれども、楽しいのである面白いのである、眠たいけれどもありがたいということに、しんじんではなるでしょうね。そこんところのおかげ、そこんところの身に付いていくところの、楽しみを持った信心にならなければならない。
何十年信心したってです、信心の稽古のいわば、稽古している事が身についていきよるようなですね、思いがなかったらもうだめです。おかげは受けられてもそれでは値打ちがなかって。いわゆる信心の稽古をさして頂くっていうその体制と、態度というものがです。
今日、善導寺の????の奥さんがお参りして見えてからです。先生、私は何というても、ここの信者さんの中で一番好きな信心っていうのは、???かずえさんの信心が好きでございますと言われる。素晴らしいもんまた。そりゃ例えば、今の信心が素晴らしいというのじゃない。十、ここ何年間という間です、あの人が、それこそ一歩一歩に信心を自分のものにしていきよる姿勢が素晴らしい。だから言う事が垢抜けしとる。垢抜けしていきよるだんだん。いわゆる信心臭いようであって、一つも信心臭くないという。信心になっていきよる最近。
これはまぁ私もそれを感じておると、だから誰の目でも同しこと。そういう例えば信心をです、自分のものにしていきよるこの態度というものは、人の心にも人の目にも映じたり、それが感じさせたりすることができるんと私は思うんです。
何十年信心しとって、何十年ここで例えば私の家族のような者がです、朝晩、御理解頂きよってもです、本気でその事をです、信心を自分のものにさして頂こうとする願い、神の絶対愛は本当にその中から分からせて頂こうとする精進というものを成さずしてはです、いよいよ10年、20年経ったて何にも成らんということ。
おかげはやはりご縁を頂いておるから、おかげは受けておってもです、垢抜けしてこない。なるほど、っていうようなものが相手にでも与えることすらできない。一つ、あの人でも目を見張る様な信心。神様からもやはり、本気で修行さして頂こうといやぁ、神様もその気持ちになって、共々に修行してくださる。私はこれがなかなければ駄目だと思う。
最近、竹内さんが10時から、大祓い10巻を信心に備えたい、奉唱、その事の修行がしたいというので、まぁ一生懸命。それこそあの、本当に釣り鐘割ったような大きな声で、やっぱですね、10巻大祓いを奉唱しますと1時間半くらいかかる。???に。もう汗びっしょり。もう、お参りしたもんこそ、えらい迷惑のごたぁけれども、実際はさきほど今日の田中さん?もそうでしたけれども、あれが一っつも邪魔になっていかん。だからお参りすたびに一生懸命???????分からん。でも一生懸命になるからおかげ頂く。邪魔になっていかん。それを何日目からか、長男が伴奏するように自分が、若先生が先唱してやっておる。
私は教導ということには、こういうことが必要だと思うんですね。例えば信者が本気になって修行さしてもらったらですね、先生自身も知らずと共に、本気で修行さして頂こうということにならなければ、本当の修行はでけんとやっぱ信心は。いわゆるその、若先生がその竹内さんに対するところの、教導態度とは私はありがたい素晴らしいことだと、こう思うです。
一生懸命修行しよるというだけじゃなくて、それこそもー一汗かかして頂くと、一時間半もう一生懸命、もうそれはへとへとになりますよ。高天原にかむずまりますって、ほんなもぉてんで、?????のようにあげるなら十巻のあっという間にあげます。今日ももう腹の底から本当に一巻一巻をです、あげていったらもうそれこそ、一時間半おらび続けるだけでも大変なことですよ。
けれども、やはりこの人たちの場合でもです、そこんところがさぁひと汗かかして頂いて、また???を頂く時の、その一つの快さっていうか、一つの修行を成したというその気持ちというものはです、1日のうちでも一番、いうなら有り難いときじゃないかとこう思う。それが信心のどういう風にプラスになるか分からん。また神様それを喜んでくださるかも分からん。けれども、そういうふうにして一生懸命にです、神様に向こうておるという事だけはまちがいないから、向こうておることだけは神様が認めてくださる、と私は思う。そういうような中から、信心がいよいよ好きになってこなけりゃならんと思うんですね。どうぞ